葉山文学散歩

ゆかりの文人たちの足跡を訪ねて

 葉山って鎌倉時代の「吾妻鏡」や「源平盛衰記」等にも足跡が残されているんです。
頼朝の愛人が妻政子に追われて鐙摺に逃げてきたなんて書いてあります。 
明治、大正、昭和前期には、避暑地として、結核療養地としての葉山に、戦後は「太陽の季節」や「日本沈没」などの名作の舞台として、多くの文人が訪れ、居を構えました。
今でも郷愁の海岸や、ローカルガールの生活があちこちの文面を彩ります。
集めてみるとかぞえきれないほどたくさんあります。 
こんな小さな町が数多くの古今の小説の舞台となったり、エッセイの中で取り上げられるなんてめずらしいことじゃないでしょうか。
これは、ゆかりの場所を訪ねた「葉山文学散歩」の一部です。
ご興味をお持ちになりましたら、原本をお読み下さい。
その中にあなたの知らない葉山が見えてくるかもしれませんよ。       
 2002.10   堀内在住 鈴木雅子


御用邸 の辺り

 今日の葉山の葉山たる由縁は御用邸の存在によるところが大きいのではないだろうか。
大正天皇はしばしば葉山御用邸を訪れ、ことのほか愛された。のちに葉山にてご病気療養中、ついに付属邸(現しおさい公園)にて崩御、葉山で昭和天皇は皇位継承をされた。
その昭和天皇も崩御されたが、いまでも変わらず天皇ご一家はたびたびお見えになり、海辺のひとときを過ごされている。



ベルツ夫人・花と二人の女性 卯女と眞寿美

 花はベルツ夫人である。東京医学校(翌年東京大学)教授として明治9年に招かれたベルツは、当初2年の予定が29年の長きに渡る滞日となる。日本を深く愛したベルツは温泉の効用を広め、水泳や伝統武術を普及し日本人の健康や文化に大きく貢献した。
 その正妻、花にまつわる物語を鹿島守之介夫人 鹿島卯女と、花と同じドイツ人の医者 を夫に持つ 眞寿美・シュミット・村木が掘り起こした。

 「花・ベルツへの旅」は、激動の時代の日本とドイツ両国で明治、大正、昭和と生き抜いた一女性の生涯と、二つの祖国を背負ったその息子トクやベルツ家の人々を丹念に追った興味深いドキュメントである。       

 眞寿美・シュミット・ 村木は「花・ベルツへの旅」のなかで、大正天皇に信頼された「ベルツの日記」を引用しな がら日記が息子 トクによって、都合よく変えられていることを実証している。



「大正天皇」を巡る風説に疑問を投げかけた 原武史

 明治天皇と昭和天皇という時代に象徴された輪郭のはっきりした天皇の間にあって、作者によれば「天皇にあるまじき過剰なまでの人間性を保持しようとしたところに由来した」大正天皇の不運。
 遠眼鏡事件を検証して脚色された風説だったと指摘し、客観的な大正天皇を描こうとする。
大正という時代がどういう時代だったのか。天皇と なって病状悪化が進み、摂政の皇太子とともに「昭和」が始動して、悲劇の天皇と 「大正」が忘却されていく。


「曇り日」の表題に現された鬱憤の時代  堀田善衛

 「おれはおれの敗戦十年を記念してこのことをしるしておく」と宣言したように、 「戦後文学」の転機の時代の作品である。マッカーサーが解任された年のある日、天 皇に屈折した思いを抱く主人公が御用邸に続く道のバス停で子どもを負ぶって立って いるところに、あの人が通りかかるのだ。
 詩人で文明批評家でもある作者はこの小説 を借りて時代を切り取った。



外国人の見た天皇 「天皇ヒロヒト」 レナード・モズレー

 モズレーは英国のジャーナリストである。
 皇室に関する著書も多くない昭和天皇存命中にこのようにさらりとありのままを描き、しかも外国人ということで、その出版は衝撃的であったと思われる。
 海洋生物のご研究がご趣味だった昭和天皇は、葉山に来られると一色の浜から相模湾へ葉山丸という採取船で早速船出なさるのであった。


 

御用邸炎上 「パイプのけむり」 團伊久磨

昭和46年一月二七日に御用邸は心ない青年によって焼失した。
炎上の模様がすぐに團伊久磨によってアサヒグラフの連載随筆二月号に描かれた。
彼がいちはやく飛び出した家は白石橋近くの借家であった。
それからまもなく秋谷に新築した家に引っ越しすることになる。




沿道のお迎え

 今も葉山では皇室の方々がお見えになると警備の警官たちに話しかけながら国道沿いでお待ちする。 必ず車の窓を開けて手を振ってくださる美智子様や雅子様に間近でお目にかかれるからである。 時にはお花やさんや、散策途中の山道でもばったりお会いすることもあって、お声をかけてくださったりする。
 そのさりげないふれあいが葉山らしいところかもしれない。しかし、戦前はそうはいかなかった。           

「乗合馬車」に似た家族として         中里恒子

 十三の春に、義姉としてはるばるロンドンから迎えたドロシイ、十九の秋姉嫁としてアデリアを家族として迎えていた彩子は、自分の運命を乗合馬車にも似たものだと感じる。
 逗子に長く住んだ中里恒子は、同様の環境から自伝的な小説を数多く著した。文中の曳かれていく宮さまの牛は、長期滞在なさる宮さま方の牛乳を確保するためとか。御料牧場で採れたもののみが皇室の食卓に載る時代であった。

海岸通りで英国式のお辞儀         ドロシー・ブリトン

 英国と日本を行き来して必ず一色の家にお戻りになるドロシー・ブリトンは、大好きな日本で作曲、編曲、NHKの中学英語講座や翻訳等の仕事をしてこられた。
 エスプリのきいたエッセイ集の中で、幼い頃家の前を通る陛下のお車の行列に、英国式の女の子のお辞儀をしていたというエピソードが出ている。


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