ゆかりの文人達の足跡 葉山文学散歩トップ

1−1 鹿島 卯女「ベルツ 花』  鹿島出版会  昭和47
 神奈川県の葉山が避寒避暑地に適することは、明治二十年(一八八七年)、当時の駐日イタリア公使、レナート・デ・マルティーノが唱道したものであった。その後ベルツもこれを賞讃して、葉山が冬暖夏涼で、衛生上好適であることを推奨し、多くの人びとに別荘を建てることをすすめた。その結果、明治二十二年の冬に一色に井上毅子爵、二十三〜四年にかけて有栖川宮家御別邸、金子堅太郎伯爵の別荘が建ち、遂に明治二十六年(一八九三年)には一色に御用邸もおかれるようになり二十七年一月に落成した御用邸に、その年の七月皇后(昭憲皇太后)が行啓された。
1-2 眞寿美・シュミット・村木「花・ベルツへの旅」講談社 平5
 ベルツは葉山の堀内に家を持っていた。明治二十年代に当時のイタリア公使やベルツが、気候のいい葉山を別荘地として勧め、御用邸などもできたのだった。「(ベルツは)水泳を奨励して、西郷従道さんのお子さんと興津へ行って、飛び込んで危ない思いをした。遠浅のある大磯は波が荒いし、鎌倉は悪潮流があるというので、逗子へ行った。そのあと、松本良順さんが大磯を開いたが、皮肉にもそこでお子さんがおぼれてしまった。西郷さんのお嬢さんがすっかり元気になったので、ベルツは国民に水泳を奨励してくれと頼まれたものだ。明治このかたさびれていた逗子の漁村に、イタリア公使マルチーノさんとよく行ったものだ。西洋人が舶来の家をたてると気分がこわれていけないと、寺に泊まっていた。」(「ベルツありし頃の思い出」花・ベルツ)

 

1−3 トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳「ベルツの日記」岩波文庫 昭54
 [明治三十四年]十月四日(東京)今日、東宮を診察するため呼ばれた。ヨーロッパへ旅立って以来、すなわち一年有余以来、最初のことである。東宮は、二週間このかた、急に目立って体重が減ってこられた。だから、体内のどこかで潜伏的に病勢が進んでいるかもしれない懸念があるわけだ。(中略)もともと東宮は、幼児のご病気以来おちついて一つのことに専念するのを好まれない性質なのだが、近頃はこれが旅行好きの形をとって現れてきた。特に、東京を嫌われるのであるが、実のところ、次代の天皇が一年のうち少しの期間ぐらいは首都ですごされるのは、なんといっても当然の話と思う。しかも今が、東京ですごされるのには至極好適の気候なのだ。それなのに、東宮はどうしても葉山へ行きたいといわれるし、医師の側としては、このようなわがままなご希望を容れると、将来かれらはなんの権威も亡くなってしまうだろうというわけである。

 ところで、有栖川宮はといえば、やはり葉山行きに賛成しておられるらしい。というのは、もう二十一歳の東宮に対して(自分の意見もそうだが)あまりにも堅苦しい医師の監督の束縛を、有栖川宮は断ち切ろうと思っておられるからだ。事実、東宮が葉山へ行かれてはいけない医学上の理由はなんら存在しないのである。おそらく政策の上でのみ、東宮が東京に居られる方が賢明だというにすぎないのだろう。そんな次第で、いま自分は両派の間に立って困っているわけだ。

 

1−4 原武史「大正天皇」朝日新聞社 朝日選書 平12
 裕仁皇太子が摂政になってからの天皇は、葉山や日光田母沢、沼津の各御用邸に引きこもり、ひたすら静養に努めた。(中略)同じころ、山手線の代々木ー原宿間に、明治神宮の造営工事で使われた引き込み線を利用して、天皇専用ホームである原宿宮廷駅の建設が始まった。この駅は、一四年に完成した東京駅とは対照的に、御用邸に向かう天皇の身体を人々の視線から遮断するための駅であった。(中略)だが二六年になっても、天皇の発熱はなかなか治まらず、平熱に下がった後も脈拍数の多い状態が続いた。五月に再び脳貧血で倒れると、歩行はほぼ不可能になった。八月十日、天皇を乗せた自動車は原宿宮廷駅の構内に入り、天皇は椅子に座ったまま、自動車から御召列車に運ばれた。列車は山手線から東海道、横須賀線に入り、逗子へと向かった。行き先は葉山御用邸であった。しかし、大正天皇が原宿宮廷駅を利用したのは、これが最初にして最後となる。

 

1−6 堀田善衛「曇り日」昭30 新潮社「日本文学 全集67」堀田善衛集 昭37
 小さな岬の突端にある、米軍に接収されてオフィサーズ・クラブというものになっている、小さなホテルの裏を通り、庭が何千坪もありそうな、ばかでかい邸のそばまで行き、子供がつかれたというから、おれはまた鋸をならべた海岸までもどって来た。そして道路へ上った。そのばかでかい邸が、さっきちょっと言ったQと関係があるのだ。いや、Qの別邸なのだ。(中略)そのバス停留所の向い側の、低い、松の木の生えた山の中腹に、大きな洋館の焼け跡がある。松も十本以上枯れている。この洋館は、五、一五事件の時に、軍人に殺された、ダルマさんという綽名のあった、高齢の大蔵大臣の別邸だった、という話であった。(中略)その、とうのむかし、日本人の手で殺された人の別邸を、米軍の大尉だか中尉だかが接収して入り、火を出して燃やしてしまった。

 

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