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自然と遊ぶ懐かしい少年時代
阿部倉山(萱場)から望む長柄地区(昭和39年)
火の見ヤグラの見える御霊神社

 長柄の町内を散策していると、御霊神社の境内に車座となった子供たちがゲーム機をもってそれぞれで遊んでいるのを見かけたりします。私が小学生の頃(昭和20年代)とはすっかり様変わりしているようです。
 まだ火の見ヤグラがあったころです。当時の私の家は、現在の笠原商店の近くで友達の家の広い庭や、隣家との問の空き地や畑付近で、缶けり、鬼ごつこ、かくれんぼ、Sトビや木登り等を盛んにしました。
 木に登って小さなみかんやサクランボを頬張り、また、中町の田んぼに水がはられる時期には、清水が勢いよく流れる用水路で小鮒、タナゴ捕りに熱中し、森戸州ではダボハゼやウナギ捕りをしました。

 長柄小学校の下、現在の森田公園あたりは、川から山にかけて大きな木が何本も生えた平地となっておりました。土手の低いところの竹やぶを抜けて川を渡ると、そこは絶好の遊び場でした。

 

 さらに、上流に向って川伝いに歩いていくと、落差が大きな滝に突き当たります。そこは、今の中町橋のところなのですが、大きな滝つぼがあって樹木に覆われた昼なお暗い場所で、大変美しい渓谷になっていました。滝つぼに至る土手の穴に餌をつけた竹竿を突っ込み、ウナギを捕まえたりもできました。
 工作の遊びとしては、竹馬、ヤツデ鉄砲、弓矢が代表的な遊びです。ヤツデ鉄砲は、ヤツデの実の代わりに新聞紙をクチャクチャと噛んで玉にしたり、木の柔らかい芯を玉にしたりして季節を問わず遊べました。特に、弓矢作りは、いかに強い弓を作って矢を空高く飛ばせられるか、友達と競い合った遊びです。このように手作りの、自然の遊びに熱中した少年時代を過ごすことができた私は、幸せだったと
思っています。

 人家がまばらな昔の写真を見せていただき、少年時代に遊びまわった田園と友を懐かしく思い出しました。

 

(長柄在住) 写真提供  根岸 稔氏 くれ竹通信Vol.40/2007.11
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真夏の森戸海水浴場ー昭和28年
海岸入り口に立つ広告文字の多さが物語る 当時の賑わい。
右脇に見えるのが森戸橋、背後の山は仙元山。

ジリジリと焼けつくような太陽。
潮風がはこんでくる楽しげな喚声。
石造りの森戸橋を渡って左へ折れると、
そこは森戸海水浴場の入口です。

 昭和28年夏。大戦後の混乱や朝鮮戦争の激動もようやく収まって、人々の暮らしにもなんとかゆとりが生まれつつあったこのころ、森戸をはじめ一色、長者ケ崎の海岸には東京・横浜からの海水浴客もしだいに増えてきました。
 ラジオから涼しげなハワイアン音楽が流れてくるようになりましたが、冷蔵庫やエアコンなどは、まだ一般家庭にはまったく無縁の存在で、暑さをしのぐには海に入るのがいちばんといった時代でした。

 

 葉山の海水浴客のピークは、この後40年代末までつづき、海辺には更衣所がぎっしり立ち並んで、渚はまるで芋を洗うような混雑ぶり。寮や民宿も泊まり客で満員となり、夜遅くまで遊戯場が賑わっていました。
三つの海水浴場あわせて一日十万人の人出を数えたこともあり、現在の静かな停まいとはまるで別世界のようです。
 写真は森戸橋のたもとにあった珠屋の前の通りを撮ったもの。数本の松の木や人々の服装が往時を偲ばせます。

くれ竹通信Vol.32/2006.5

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今や昔の「水屋」ものがたり  〜葉山の水屋22年前の角田佐一さんの話〜

 祖先は代々左右衛門を名のり、木下橋のきわに300坪程の屋敷をもった農家で、屋号は「もとやしき」といいました。
 水屋は親父が昭和のはじめ頃はじめたようで、いつまでやっていたかわかりません。
 葉山には正式の水屋はうち1軒でした。今はありませんが家の井戸は2つあって、どんな日照りにも枯れたことがない井戸でした。
 井戸の前に大きなやぐらをくんで、牛車[ぎっしゃ]用、馬車用、リヤカー用と3つ水槽をおき、近所の人を雇って夕方ポンプで水を一杯にはっておきます。日当は7〜80銭位だったでしょうか。肩でかつぐのもやりました。水桶は肥桶より小ぶりで、前うしろ2個で1荷10銭、遠くでは1荷20銭だったようです。水がめを貸しておいて毎日水を入れてきました。水がめは1荷分です。
 牛車は馬力車より小ぶりですから細い路地に入れます。牛車も馬車も四角い木製の水槽に水をはってお得意様の家で、酒樽のように栓を抜いて水を売りました。

 
 葉山の御用邸では、天皇のご一家がお見えになると、トラック一杯の水を買い上げられました。
 ご一家がお使いになる水は別で、御用邸用の井戸が下山川の上流にありますが (上山口間門・水源地)、うちの井戸水はおつきの人達の飲料としてのお買いあげです。
 葉山の井戸は、海岸近くでは塩がさしますし、田んぼを埋め立てたところは赤く水が濁り、その上日照りには滴れることがあるので、そういう時は忙しかったです。
 馬車一杯、井戸につぎ込んだこともありますが、見てる問に水が吸い込まれて少なくなったりしてさわいだものでした。
 郷土史研究家・黒田康子氏『手帳第91冊』 (昭和59年8月聞き取り)より抜粋

くれ竹通信Vol.31/2006.5

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懐かしい東伏見宮邸の自然

上:宮家の山からの眺望 下:宮家当時の洋館

 堀内「あけの星幼稚園」 の背後に見える白い洋館は、かつて東伏見宮別邸だった。大正3年(1914年)の建設で、戦後間もなく宮家の臣籍降下とともに手放され、カトリック・イ工ズス孝女会の所有となっている。
 私の父 (昭和51年没) は、大正8年頃から昭和18年に辞するまでおよそ25年にわたり、東伏見宮邸に管理人の一人として仕えた。邸内の東の端に長屋形式の官舎があり、私はそこで生まれ、育った。
 官舎の前には温室や広い花壇、濯水用の幾つもの池があり、自然がいっぱいだった。池の中には金魚のほか、ゲンゴロウ、ミズカマキリやアメンボが泳いでいた。ちょっとした溝や土手にもベンケイガ二が沢山いた。邸内の木の実、草木や竹を使って、簡単なおもちゃを作ってもらい、一日中遊んだ。
 宮家の山は南西方面に面しており、南側と北側の登り

口から頂上を通り、一周して降りて来ることができた。頂上と途中にあった東屋からは洋館越しに富士山、伊豆、箱根の山々、相模湾、森戸神社や名島が一望でき素晴らしかった。
 頂上から降りてくると柿畑とみかん畑があった。
 洋館の方に降りると、モウソウダケの林があり、その下には大井戸があった。
 山や庭には様々な種類の樹木があり、季節ごとに花や実をつけていたので、メジロ、シジュウカラ、ヒヨドリ、アオジ、モズなどの小鳥が多くやってきていた。
 西側の門を出ると前に田畑や松林が広がり、夏の終わりから初秋にかけてトンボとりに耽った。ギンヤンマ、オニヤンマ、アキアカネなどが群で飛び交い、竹竿の先にギンヤンマを糸で結び飛ばせてとったことを思い出す。
 葉山も住宅やマンション開発が進み、お屋敷だったところの緑も年々少なくなっている。あれだけ多くいたベンケイガ二も滅多に見ることができなくなった。
 幼かった頃の『牛が谷戸』の自然が懐かしく思い出される。   (堀内在住 鈴木 哲)

くれ竹通信Vol.30/2006.3

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駄菓子屋が溜まり場、葉山の子らの顔・顔・顔

 海岸通りの小きな駄菓子屋のおばさんは、集まってくる子供達の顔を見て、おまえさんは平五郎の子、おまえさんは安兵衛の子と、次々に当てる。後ろの方にいた私の顔を見て、「あんたは福治郎さんの子だね。そっくりだよ。すぐわかるね」と大声で笑う。私もつられて笑った。
 当時の葉山は、別荘を隙いては皆、土地の人ばかりだ。海の近くは漁師の家、山の方は農家で、海の方から山の方へ、山の方から海の方へ互いに交流があった。
 だから年寄りは子供達の顔をみれば親がわかるらしい。葉山の子の顔、東京の子の顔、別荘の子の顔、それは一見してわかるのだ。
 女学校に入学した時、私はY市の同級生にただ驚きととまどいを感じ、特別意地悪いわけではないのに

こわかった。 父は、「Y市は日本中の町から海軍に関係ある人達が集まる所で、葉山のように小さくないよ」と説明してくれた。
 今、葉山に行くと見かける人たちの顔は、一様にハイカラで都会的だ。私の育った頃の顔は見当たらない。
 最近、民放やNHKでよく葉山が とりあげられる。
 以前、同級生の活魚料理屋が放映された。神棚に手を合わせ店の繁盛を感謝している素朴な同級生の顔を見て、涙があふれてきた。まだ葉山の顔は残っていたのだ。

くれ竹通信Vol.29/2006.1

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朝の登枚風景も懐かしい昭和30年代の葉山小学校前

 昭和8年4月1日、この校庭に上っていく坂道の土手には桜の花が満開に咲き乱れ、微かなる風にそよぎながらひとひらふたひらと花弁を散らしていました。私は母の手に引かれ、この坂道を歩いて新一年生としてこれから8年間に及ぷ永い学業の一歩を踏み出しました。この年からハナハトの教科書がサイタ、サイタ、サクラガサイタのカラー版に変わり、印刷されたインクの香りに感慨を深くしたものでした。
 この坂道に登る手前に幸福堂という生徒を対象とした文房具屋さんがあり、ノー卜、鉛筆、消しゴム等、学校帰りに寄っては用足しをしたものでした。

 そしてこの坂道を登りつめると広い広い校庭が広がり、そこに大きな桐の木が何本かあり、秋ともなるとたくさんの実がつき、台風通過後に落ちたその実を拾っては、笹舟代わりとして遊んだものでした。
 下を走る道路は国道134号線、昭和5年に開通されたもので、それに沿うように小川がありました。当時としては珍しいコンクリー卜固めで、小川というような情緒は微塵も感じられず、むしろドブ川の存在でした。
 更にそのドブ川から、なだらかに広がる一帯(今の京浜団地)は、丈の低い松とその根元を覆う竹薮で、足の踏み場もなく、野球のボールでも飛び込もうものなら、まずは諦めが先でした。戦中、これらのものは総て刈り取られ、食料増産のた めに開墾されました。今の「新田なか」さんの前にかかつている橋、もっとも当時は丸木橋でしたが、ここから耕作者は農道を登っていったものでした。
 昭和30年代になっても、まだ車のほとんどない時代ゆえに、牛車の往来ものんぴりしたもので、交通整理にあたるお巡りさんも手持ち無沙汰。
毎年、桜の花が咲く頃になると、満開に咲いていたあの通学路の見事な桜の風景が、懐かしく思い出されます。
(長柄在住 小菅寅一・記)

くれ竹通信Vol.28/2005.11

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森山神社・三十三年目の大祭に三度めぐり合う

 森山神社の三十三年目の大祭に生涯三回巡り合わすことは珍しいと云われていますが、私は運よく第一回は昭和7年に、次の昭和39年、平成8年の時は故郷を離れていましたが大祭当日のその賑わいには参加することができました。
  この写真は昭和7年 時のもの。15歳の夏でした。
 初めて作られた子供みこし二基(榊みこし)に携わった者全員の姿です。「一色小若」の「はんてん」を作ってもらい、豆しぼりの手拭、白ステテコ、白足袋の姿で参加をしました。
 そして数日の一色中の渡御を終わり、いよいよ小坪の天王社へ御神体の「みこし」を送るため逗子に向かったおり、当日の暑さのなか、

仕出された昼食のお弁当で食中毒者が出てしまいました。
 子供たちにも腹痛やら体調不良を訴える者も多数出てしまい、逗子を通過してからは行列も何となく精彩を集い、やっとの思いで帰宅したことが思い出され、まことに苦い思い出として今も残っています。
 森山社の例年の祭礼には、社前の階段に到る参道の両側には、毎年定位置に決まった顔ぶれの店が出ていて、アセチレンガス灯の光の中に力ーバイトの匂いとあの独得の祭りの雰囲気が懐かしいものでした。
 十銭玉でいかに上手な買物ができるかも楽しみの一つで、胸とどろかせつつ賑わいのなかに出掛けて行ったものです。舞台となる「一色会館」はまだ姿はなく、すべてその年に組まれた掛小屋で桟敷も南面の土手に合わせて作られました。
 そしてこの桟敷も、寄付金の額により早い者勝ちによい席が貰えたとのこと。毎年同じ田舎歌舞伎の訪れに夜の更けるのも忘れて、祭りの賑わいに楽しみを見出していました。
 思えば遥かに遠くなった昭和初期の物語です。
    (八王子在住 鈴木寅治・記)

くれ竹通信Vol.27/2005.9

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森戸海岸の竜宮祭−乙姫・浦島太朗が懐かしい−
 昭和29年、戦後の混乱期から社会が落ち着きを取り戻しはじめ、人々の遊びやしジャーに対する姿勢も、より積極的になってきた 時代。この年の夏、森戸海岸で地元主催のイベント「竜宮祭」が催された。写真はそのときの輝かしくも懐かしい記録。  憧れの別荘地から、庶民も気軽に海水浴が楽しめる避暑地ヘ。戦後の民主主義の空気にふさわしい、新しい時代の葉山がここにあ る。御用邸の町として知られるだけではなく、これからはより多くの注目を浴び、人を呼ペる魅力づくりを、と知恵を絞った先人たち。

 彼らが考え出したのは「乙姫浦島コンテスト」。
  入賞したミス乙姫の妙齢な3女性は、浦島太郎投の3少年といっしょにパレ−ドしたり、竜宮城を模した船で海上を遊覧したり・ ・・。  浜辺の特設ステージでは心浮きたつハワイアン音楽の演奏があり、放送局まで中継にやってきたとか。 こうした楽しい仕掛けが、その後の昭和30年〜40年代の葉山に賑わいと繁栄をもたらした原点になった。

くれ竹通信Vol.26/2005.7

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一色海岸「3つの島」のその後  

   かつて一色海岸には、一ノ島・二ノ島・三ノ島と呼ばれる3つの岩がありました。そのうちのピラミッド状をした「一ノ島」はサザエ島ともいい、今でも海面に姿を見せています。また「三ノ島」は、春と秋の大潮のときに、波間からわずかに顔を出すくらいです。でも、鯨島とも呼ばれる「一ノ島」は、ある時期から全く見えなくなってしまいました。

 「一ノ島」は、長さ約1.3m、幅約1mくらいの大きさで、横から見ると全体に台形をした、黒っぽい色の岩でした。御用邸の下の砂浜 から泳いでいくと、ちょうどひと休みしたい距離のところにあり、おとなも子どもも上ったり飛び込んだりしていました。  この「一ノ島」は1970年代の始めごろに、小磯から伸びる新しい防波堤がつくられたとき、コンクリートで固められて、その下に 埋まってしまいました。こうして完成した頑丈なコンクリー卜製の防波堤も、30年以上の長い年月のあいだに、台風などでくり返し 押しよせる大波のカをうけて傾いたりずれたりしてきました。ところが「一ノ島」の上に乗っている先端部は、今もほぼ水平を保っ ているのです。  写真は昭和35(1950)年の一色海岸を撮影したもので、手前に見える一群の岩礁は「地蔵」と呼ばれるもの。細長くのびているのが 「小磯」で、3つの島が見えていました。

くれ竹通信Vol.25/2005.5
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50年前のうれしい入園式記念写真  


  今から半世紀前の1955年4月。春の陽を浴びて、にぎやかな笑い声が響いていました。わいわいと駆けまわったり、お互いにつつきあっている元気ないたずらっ子たち。なかには泣き出す子もいて、お行儀よくイスにすわらせるのは、なまやさしいことではなかったでしょう。ここにご紹介する写真は、そんな光景を思わせる一枚。堀内にある「あけの星幼稚園」 がまだ開園まもないころの入園式後の記念写真です。

 つんとおすまししたり、レンズをにらんだり少しはにかんだり…。みんなの小さな胸は、これから始まる幼稚園生活や新しい友たちのことを考えて、きっとワクワクドキドキ。いっしょに並んでいるお母さんや家族の、どこかホツとした表情とは対照的です。入園入学時のほほえましい風景は日本中どこでも見られますが、でも、ここはやっぱり葉山。なにかしら空気がちがって感じられます。その理由は、みんなを背後からやさしく見守っている優雅な建物のせいかも知れません。この建物は旧東伏見宮別邸で、大正13年にこの地に立てられたもの。80年後でも風雪に耐えて、当時の貴重な姿をとどめています。
 この「あけの星幼稚園」も昨年5月創立50年を迎えました。
 そして、ピカピカの新園児になった幼な子たちも、いまでは50代なかば。「あけの星」でイエズス孝女会の教えに育まれたみんなは、どのような道を歩いたでしょう。そして、今年の新園児のみんなは、これからどんなことを学んでいくことでしょう。

くれ竹通信Vol.24/2005.3
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くれ竹通信Vol.22/2004.11

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くれ竹通信Vol.19/2004.5

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くれ竹通信Vol.18/2004.3

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