顕彰碑
ベルツ博士・マルチイーノ公使

39 顕彰碑 ベルツ博士・マルチイーノ公使

 
分類/区分 町指定文化財第25号 有形文化財 建造物 石造り
所在地 堀内1024 森戸神社境内 散策マップ《堀内》15番
所有者等 森戸大明神  
指定年月日 昭和49年4月15日 員数 1基
   

ベルツ博士
 ベルツ博士の名は、丁寧に言えばエルウイン・フォン・ベルツであるが、以下略して「ベルツ博士」と呼ぶ。
 ベルツ博士は、1849年(嘉永2年)南ドイツのビーチッヒハイム市に生れた。1876年
(明治9年)26才の時、ベルリンのチュービンゲン大学を卒業と同時に日本政府の招聘を受け、官立東京医学校教師として雇われ、同年6月横浜に着き、同月10日から東京医学校で講義を始めた。
 初めは生理学と薬学を担当していたが、先任のウエルニヒ氏が去った後を受け内科を担 当した。明治19年東京大学医学部が、帝国大学医科大学と改称された頃、ベルツ博士は同校の内科と産婦人科を担当した。
 ベルツ博士は日本の人類学も研究した。特にアイヌの研究は知られているし、又小児病である蒙古斑の発見、日本人の食生活や衣服の問題、日本に於けるスポーツなどに就いても研究した。又公衆衛生と治療医学、防疫事業などにも尽し多大の貢献をした。
 ベルツ博士は日本の温泉に就いても研究し、温泉療法の奨励や改良にも力を尽した。特に草津温泉の効用を海外にまで紹介したから、草津の人達は最大の恩人として博士の記念碑を草津公園に建てた。
 ベルツ博士は東大を退官後、皇室の侍医として3年間日本に留まった。
 ベルツ博士の妻は日本人で、元治元年11月18日(1864年)生れの荒井はつ(後花となった)で葉山町に戸籍が残っている。花はその名に背かぬ立派な夫人だったと伝えている。博士とは15才年下であった。
 ベルツ博士は明治9年6月日本へ来て、明治38年6月故国ドイツへ帰ったのだから、日本には29年間居たのである。
 ベルツ博士は在日29年の内、明治26年12月葉山村堀内961番地(現在ソニーコート葉山寮)に土地を買って住み、明治37年9月、土地家屋を売って葉山を去ったとされたが、入澤博士の日記にはベルツ博士は明治22年に、葉山に別荘を持ったと記されているとの事だから、葉山には15年住んだのである。
 ベルツ博士は帰国に際し、多年の功労にむくゆる為勲一等旭日大授章を授けられた。
 ベルツ博士は帰国後の明治40年4月に、宮内省の御用で独り来日したが、その時東京帝国大学へ理学治療法研究費として、ベルツ賞基金を寄附した。
 ベルツ博士はこの時帰国してから5年後の、大正2年8月31日ドイツのシュツットカルトで、64才で歿した。

レナート・デ・マルチイーノ公使
  マルチイーノ公使はイタリアの日本駐在公使で、明治17年に来日して、明治27年支那へ転勤のため日本を離れるまで10年間在日した。
 マルチイーノ公使は、ベルツ博士と親交があった。葉山には別業を設けた程だから、葉山住民と交遊もあって、古老は公使と親しかった。
  マルチイーノ公使は日本に縁が深く、公使の令息は大正10年から大正13年までの3年間、駐日イタリア大使を勤めているので、親子二代駐日イタリア代表者であった。

葉山町に両氏の顕彰碑が建立さる。
 明治20年に、マルチイーノ公使が、葉山は避暑避寒に適していることを唱道されると、ベルツ博士は直ちにこれに賛同し、両人共日本人の間に宣伝されたので、御用邸が葉山へ置かれる事になった。
 又そのため葉山には政界・財界の有力者が、競って別荘を建てたから、寒村だった葉山は忽ち開け、日本で有数の避暑避寒地となって脚光を浴びた。
 ベルツ博士の門下生として知られている人に、三浦謹之助博士、真鍋嘉一郎氏、入澤達吉博士などあるが、入澤博士は、ベルツ博士とマルチイーノ公使の業績を永く後世に残す為、当時の森戸神社宮司守屋喜代太郎氏の協力を得て、堀内1024番地森戸神社境内の最も良い位置に顕彰碑を建てた。
 除幕式は、昭和11年4月ベルツ博士夫人荒井はつ(花未亡人)を迎えて行われた。

碑の大きさ及材質其の他
 碑の大きさは、台石を除き高さ213cm、幅80cm、厚さ11cmで、台石の高さは117cmだから地面から先端まで330cmの大きいものである。碑の石材は、稲井石(仙台石)で、台石は花崗岩(白御陰)である。碑は破損個所なく、刻字も鮮明である。

顕彰碑々文
IN MEMORIAM
 DHEV.RENETI DE MARTINOマルチイーノ公使
        ET                        記念碑
 PROF.DR.ERWINI BAELZベールツ先生

 葉山一帯ノ地源平時代二在リテ其名己二顕 ハル而シテ近古二及ヒ却テ聞ユル所アラス
明治20年中東京駐紮伊太利公使レナード・デ・ マルチイーノ氏甚タ葉山ノ風景ヲ愛シ創メテ 其ノ別業ヲ森戸ニ営ム 後ノ細川侯邸即チ是ナリ 先師エルウイン・ベールツ先生モ亦其 ノ海岸附近ノ地ニト宅シテ暇日休息ノ処卜為シ頻二此地ノ保健ニ適スルヲ推賞ス 池田徳 潤男、秋田映季子、相前後シテ別墅ヲ森戸ノ丘陵ニ建ツ 明治22年6月鉄路ノ通スルニ及ヒテ井上毅子モ亦ベールツ先生ノ説ニ聞キテ其冬一色ニ来リ住ス 翌年夏金子堅太郎伯モ亦至ル 尋テ有栖川宮家ノ別邸成ル明治27年ニ至り其1月ヲ以テ始メテ御用邸ヲ置カル  是二於テ葉山ノ名忽チ天下二鳴ル 予モ亦夙二其風光ノ明眉ト気候ノ温和トヲ愛シ蝸蘆ヲ 森戸ニ築キテヨリ己ニ30有余年ヲ過キ 頗ル先師着眼ノ敏ナルニ服ス 予他年葉山発達ノ 歴史ノ或ハ湮滅ニ帰スルアランコトヲ憂ヘマルチーノ公使及先師ベールツ先生ノ先唱ノ功ヲ石ニ勒シテ以テ後人二□ク 
 昭和11年2月 東京帝国大学名誉教授
          医学博士入澤達吉識
          野村保泉刻

参考:葉山の文化財

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