町指定
史跡
58 旗立山(鐙摺山)
はたたてやま あぶずりやま
伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(1177)、三浦微行(びこう)の折り、鐙摺山城に登るとき、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる。 源平盛衰記では、石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の入江から援軍として出陣したとしている。
この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた三浦党の絵師三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの鐙摺山城に引きかえした。
鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである。
また、曽我物語では、伊豆伊東の豪族伊東祐親は、頼朝配流中は、頼朝の暗殺を図ったため、鐙摺山上で自刃、現在その僕養塔が山上に祀られている。
また、吾妻鏡には、頼朝の籠女亀(かめ)の前(まえ)が、小坪飯島にかくまれていたのを、北條時政の妻牧(まき)の方(かた)に見つかり、牧の方はこれを頼朝の御台所政子に告げたため、憤激した政子は、牧の三郎宗親に命じて広綱はいち早く亀の前を大多和義久の鐙摺山城へ逃亡させ、事なきを得た。
そのあと、頼朝は、鐙摺山城を訪れ、牧の三郎宗親を呼び「お前の主人はこの頼朝か政子か」と迫り、宗親の元結(もとゆい)を切った。このため、義父の北條時政は怒って伊豆へ引き揚げるという一幕もあった。
歌人佐佐木信綱によれば、建保5年(1217)源実朝はこの地に観月し、「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」と詠んだと言われる。
山上には300坪に余る平坦があり、ここから見る景色は富士、箱根、江の島など、抜群である。
分類/区分 | 町指定文化財第43号 記念物 史跡 |
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所在地 | 堀内41-1 |
所有者等 | 葉山町 |
指定年月日 | 平成4年3月27日 |
年代 | 中世頃作 |